2023-1-17 高知家

久しぶりに高知で暮らしてみると、知らなかった風土の良さに気づくことがある。例えば初対面の人との距離感。好奇心が強く、来訪者を面白がりすぐ交わろうとする。酒を酌み交わせばその日のうちに友達が出来る。高知県民の内外を隔てる意識の界面は、常に混ざり合っているように思える。

10周年を迎えた「高知県はひとつの大家族やき」をテーマとする「高知家」の地方創生プロモーション。その近すぎる距離感を端的に表現する秀逸なコンセプトデザインだ。実際に触れ合って感じる、目に見えない空気感のようなものをコンセプトとして昇華させているのが面白い。

本来は県外向けプロモーションなのだが、地元意識の強い高知県民の自尊心をくすぐるコンセプトでもある。大家族という単純な比喩表現が、なれなれしさ、人懐っこさ、お節介で世話焼きといった、人によっては即座に毛嫌いされそうな、危うい価値観を端的に伝える。県民だけでなく、高知を訪れたことのある人なら「あぁ、それだ」と腹落ちするに違いない。希薄な人間関係が好まれる現代の日本では疎まれがちな価値観だが、コロナ禍で露見した人の孤立化を鑑みれば、むしろ見直されるべき希少な文化価値にも思えてくる。

高知は全国に先行して人口が自然減となり、高齢化がどんどん進んだ課題先進県である。それでも2021年度で1167組と当初目標の年間1000組を達成した。内訳も20代~40代が8割以上を占め、関東から4割、関西から3割と都市部からの若い世代の獲得に成功している。このコンセプトがその一翼を担っているに間違いない。

ブランド総合研究所の調査では、関係人口vs居住人口比率で全国6位、「高知のために何かしたい」ランキングでは沖縄に次いで2位につける。交通網や産業分布からしても移住者を急激に伸ばすのは簡単ではないが、固定ファンをしっかり繋ぎ止め、関係人口じわじわ増やすことにはかなり成功していると言えるのではないか。

高知県人は、特に県外では「土佐」というアイデンティティを強く持っているように感じていた。「龍馬ファースト」な誇らしいセルフイメージだ。しかし、高知家のコンセプトが浸透するにつれ、高知県民としてのアイデンティティに肯定感を抱くようになっていると思う。カツオ、ゆず、桂浜。高知家のコンセプトはこうしたモノや場所でなく、人間のふれあいが面白い場所として定義する。地域創生の世界では「プレイス・ブランディング」という概念が近年提唱されているが、このコンセプトはまさにその好例だと思う。

2022-12-23

「起こり得ないこと」とは、ある日突然目の前に現れることで初めて認識される。南国高知の平野部に雪が積もることは、そうそう起こり得ることじゃない。 

ここ数日は色んな作業が停滞気味。7、8割完成したらリセットされる。制作活動とは大体そういうものなのかもしれない。一度違うと感じたら、また思考のループへと戻っていく。元の形を思い出せないほど絡み合った途中成果の重みでがんじがらめとなり、息も継げないほどの深みへと沈んでいく。

「ループ」と言えば、最近手にしたドミニクチェン氏の「電脳のレギリオ」が面白かった。環世界に興味を持って色々調べてたら辿り着いた一冊で、デジタル時代の人と、取り巻く情報技術との関係性をテーマとして扱っている。

宗教の語源であるレリギオは「再び結ぶ」という意味。かつて人と社会を結びつける装置であった宗教の概念やその特権的儀式を通じた社会形成の機能に着目し、情報を軸にその概念を再構築することで、人と情報技術の新しい関係性を模索する。情報は「生命的な存在」となり、人の持つ感性を情報技術を通じて表現することが叶うならば、デジタルとリアルの世界は違和感なく融合する。ウィーナーが提唱したサイバネティクスの追求する世界が「機械の人間化」だとすれば、その目指す理想形なのかもしれない。

身体とは根源的なメディアという事実は改めて気づかされた。「今目の前に存在している世界、自分という感覚は、自分の身体とこれまで蓄積されてきた経験によって作られる」。機械に環世界があるとしたら、どんな風だろう。身体性の獲得は強いAIの議論で必ず出てくるテーマだが、AIが人体と同様の身体を持てば、自分という感覚が持てるのだろうか。自分と世界の距離感を認識できるなら、表現がなされるものに人と機械の区別はあるのだろうか。

情報の量的変化と質的変化、考える深度、媒介することと伝達すること。メディアをデザインする為の重要な要素だと思う。

2022-12-22 瀬戸内国際芸術祭

今年の夏と秋、瀬戸内国際芸術祭に足を運んだ。

2010年に始まった、3年に1度の現代美術展(トリエンナーレ)。「海の復権」をテーマとして掲げ、瀬戸内にある12の島々を舞台に、独自色の強い地域文化や美しい自然の景観に触発されたアーティストによる芸術作品、建築物、また演劇イベントが鑑賞できる。近年は世界各国から来島者が訪れる、魅力あるコンテンツへと変貌を遂げつつある。

離島巡りという非日常性を感じる舞台設定がまず良い。「瀬戸内」という切り口が地域性と一体感を想起させるし、「直島」の持つ芸術を育む島としてのブランドイメージも相まって、ある種の「正統性」を感じさせる。原研哉氏による「島のおじいちゃん、おばあちゃん」をテーマとした、巧みなヴィジュアルアイデンティティも直感的な理解への一役を担う。「普段着のお年寄りにサングラスをかけてもらうことで自然な表情を生み出すと共に、3年に一度の非日常の世界、「アートを装着する」ことをイメージ(KBSインタビュー)」という3枚の写真は、素朴な素材ながらも先鋭的な雰囲気を醸し出す。やや抑えたトーンの赤色、水色、黄色というシンボルカラーは穏やかな、それでいて風光明媚な瀬戸内のイメージと多く重なり、芸術祭のイメージをさりげなく盛り立てる。

参加するアーティストにとって、この地域の独自文化は創作意欲を駆り立てられ、魅力的に映るに違いない。「島」という閉鎖性の強い地理的特性からか、古来より人が生活を紡いだ歴史が数多く残されているのだ。例えば、大島の古郡弘氏の作品「産屋から、殯屋から」はわかりやすい一例だろう。この島には霊を祀る墓と、実際に死者を埋葬する場所が異なる両墓制の風習が残っており、そこに渦巻く「祈り」のエネルギーを作品として昇華させている。

細く急な坂道だらけの男木島に建てられた坂茂x大岩オスカールの「男木島パビリオン」も島の暮らしを感じる、一服の清涼感を感じささせる作品だ。窓ガラスに描かれた想像の世界を一時眺めていることで、この島での日々の大変な暮らしにおける一瞬の安らぎを共有できた気にさせられる。

多くのビエンナーレやトリエンナーレがそうであるように、瀬戸内国際芸術祭も歴史ある家屋の保存と再利用を通じた、寂れた街の活性化という課題解決への期待が大きい。経済活動が行われ、楽しい時間を共有することでリピーターや定住者を増やす。コミュニティを緩く形成することで関係人口の裾野を広げていく、いわばアートを媒介にした「人け」の再定義としてのコミュニティデザインである。

3年に1度という時限性もこうしたイベントの特徴である。また、回を増す毎に作品が蓄積されたり、再構築され所蔵が増えていく。3年に1度開館する美術館としての希少価値も芸術祭の盛り上がりの一翼を担う。

思えば、「祭」という日本語ならではの訳語は、人と人との関係性を結ぶ舞台装置としてこれ以上ないネーミングではないだろうか。芸術に携わる作家と島のボランティアとの交流による新しい関係性、交流により寂れる一方だった生活圏に活気がとり戻り、参加者の間に故郷的な感覚の萌芽が生まれる。一方通行の来場客にとっても離島の非日常感と意外に手軽に行ける観光地さが魅力的であり、祭りに参加する高揚感を感じることができる。

この海域一帯には古来より刻まれた正負の歴史が残っている、屋島近辺は源平合戦の檜舞台であったし、鬼ヶ島のモデルされる女木島、ハンセン病患者の強制隔離所として汚名を着せられた大島、また高度成長期には瀬戸内工業地帯の公害がもたらした負のイメージに甘んじてきた。

過疎化が進み、衰退の一方だった島々で人の交流が生まれ、活気が戻っている。これは「記憶」のデザインではないか、という考えに至った。アートの力を使って、本来持つ価値や魅力を現代に生きる人々の解釈により再定義すること。そのアイデアや人々の交流、空間の再配置を通して、良いイメージの記憶を残している。創作活動を中心にコミュニティが形成され、アート作品に溢れる頃、この芸術祭のがデザインした本質的な良さが目に見える形で現れているに違いない。