2023-1-23 ユニクロ

かつては「ユニバレ」「ユニ被り」とその機能性 の良さに見合わないダサイメージが先行していたのに、気づくと「程よい」ブランドへの変貌と遂げたユニクロ。「安い、良い、程良い」商品を提供する企業のブランドイメージを象徴するのが2つのロゴだ。

現在のロゴは明るめの赤と白抜きのレタリングで、レゴのような、はたまた手書きの ようなぎこちない印象。それなのに、かつての野暮ったい印象は払拭されている。このロゴに関して議論の的となるのは佐藤氏がインタビュー記事にて「ワザとそうした」 と語る錯視調整の問題である(https://note.com/shijimiota/n/n84fc7ddd6ab1)。あえて錯視調整しないことが僅かな違和感を生み、むしろ人の注意を惹く。滑らかさや均質性といった一般にファッションブランドが求めがちな質感とは真逆のこの感覚は、衆目を集める崩しのデザインとして成立している。

個人的に関心が高いのは店舗などで見られるロゴ2つ並べたレイアウトだ。カタカナとアルファベットの2種類を均等整列で配置することで、洗練された アイデンティティを醸し出し、ぎこちないはずのレタリングが額装された作品に見えてくる。違和感を活かした面白いディスプレイ手法だと思う。

この 2つ並んだロゴは、グローバルでの統一したブランドイメージ浸透に一役買う。カタカナを海外で目にすること自体が珍しいのだ。日 本の文化に触れた外国人がカタカナのタトゥーを入れるかの如く、日本初という誇りをカタカナでストレー トに表現するタトゥーのような、ブランドとしての強い意思の表れが見て取れる。このロゴは、日本文化に 対して憧憬の念のある人への強いアピールとなる。

シンプルさが強いメッセージを放つ。いつかこんなロゴデザインの境地に辿り着きたい。

2023-1-17 高知家

久しぶりに高知で暮らしてみると、知らなかった風土の良さに気づくことがある。例えば初対面の人との距離感。好奇心が強く、来訪者を面白がりすぐ交わろうとする。酒を酌み交わせばその日のうちに友達が出来る。高知県民の内外を隔てる意識の界面は、常に混ざり合っているように思える。

10周年を迎えた「高知県はひとつの大家族やき」をテーマとする「高知家」の地方創生プロモーション。その近すぎる距離感を端的に表現する秀逸なコンセプトデザインだ。実際に触れ合って感じる、目に見えない空気感のようなものをコンセプトとして昇華させているのが面白い。

本来は県外向けプロモーションなのだが、地元意識の強い高知県民の自尊心をくすぐるコンセプトでもある。大家族という単純な比喩表現が、なれなれしさ、人懐っこさ、お節介で世話焼きといった、人によっては即座に毛嫌いされそうな、危うい価値観を端的に伝える。県民だけでなく、高知を訪れたことのある人なら「あぁ、それだ」と腹落ちするに違いない。希薄な人間関係が好まれる現代の日本では疎まれがちな価値観だが、コロナ禍で露見した人の孤立化を鑑みれば、むしろ見直されるべき希少な文化価値にも思えてくる。

高知は全国に先行して人口が自然減となり、高齢化がどんどん進んだ課題先進県である。それでも2021年度で1167組と当初目標の年間1000組を達成した。内訳も20代~40代が8割以上を占め、関東から4割、関西から3割と都市部からの若い世代の獲得に成功している。このコンセプトがその一翼を担っているに間違いない。

ブランド総合研究所の調査では、関係人口vs居住人口比率で全国6位、「高知のために何かしたい」ランキングでは沖縄に次いで2位につける。交通網や産業分布からしても移住者を急激に伸ばすのは簡単ではないが、固定ファンをしっかり繋ぎ止め、関係人口じわじわ増やすことにはかなり成功していると言えるのではないか。

高知県人は、特に県外では「土佐」というアイデンティティを強く持っているように感じていた。「龍馬ファースト」な誇らしいセルフイメージだ。しかし、高知家のコンセプトが浸透するにつれ、高知県民としてのアイデンティティに肯定感を抱くようになっていると思う。カツオ、ゆず、桂浜。高知家のコンセプトはこうしたモノや場所でなく、人間のふれあいが面白い場所として定義する。地域創生の世界では「プレイス・ブランディング」という概念が近年提唱されているが、このコンセプトはまさにその好例だと思う。

2022-12-22 瀬戸内国際芸術祭

今年の夏と秋、瀬戸内国際芸術祭に足を運んだ。

2010年に始まった、3年に1度の現代美術展(トリエンナーレ)。「海の復権」をテーマとして掲げ、瀬戸内にある12の島々を舞台に、独自色の強い地域文化や美しい自然の景観に触発されたアーティストによる芸術作品、建築物、また演劇イベントが鑑賞できる。近年は世界各国から来島者が訪れる、魅力あるコンテンツへと変貌を遂げつつある。

離島巡りという非日常性を感じる舞台設定がまず良い。「瀬戸内」という切り口が地域性と一体感を想起させるし、「直島」の持つ芸術を育む島としてのブランドイメージも相まって、ある種の「正統性」を感じさせる。原研哉氏による「島のおじいちゃん、おばあちゃん」をテーマとした、巧みなヴィジュアルアイデンティティも直感的な理解への一役を担う。「普段着のお年寄りにサングラスをかけてもらうことで自然な表情を生み出すと共に、3年に一度の非日常の世界、「アートを装着する」ことをイメージ(KBSインタビュー)」という3枚の写真は、素朴な素材ながらも先鋭的な雰囲気を醸し出す。やや抑えたトーンの赤色、水色、黄色というシンボルカラーは穏やかな、それでいて風光明媚な瀬戸内のイメージと多く重なり、芸術祭のイメージをさりげなく盛り立てる。

参加するアーティストにとって、この地域の独自文化は創作意欲を駆り立てられ、魅力的に映るに違いない。「島」という閉鎖性の強い地理的特性からか、古来より人が生活を紡いだ歴史が数多く残されているのだ。例えば、大島の古郡弘氏の作品「産屋から、殯屋から」はわかりやすい一例だろう。この島には霊を祀る墓と、実際に死者を埋葬する場所が異なる両墓制の風習が残っており、そこに渦巻く「祈り」のエネルギーを作品として昇華させている。

細く急な坂道だらけの男木島に建てられた坂茂x大岩オスカールの「男木島パビリオン」も島の暮らしを感じる、一服の清涼感を感じささせる作品だ。窓ガラスに描かれた想像の世界を一時眺めていることで、この島での日々の大変な暮らしにおける一瞬の安らぎを共有できた気にさせられる。

多くのビエンナーレやトリエンナーレがそうであるように、瀬戸内国際芸術祭も歴史ある家屋の保存と再利用を通じた、寂れた街の活性化という課題解決への期待が大きい。経済活動が行われ、楽しい時間を共有することでリピーターや定住者を増やす。コミュニティを緩く形成することで関係人口の裾野を広げていく、いわばアートを媒介にした「人け」の再定義としてのコミュニティデザインである。

3年に1度という時限性もこうしたイベントの特徴である。また、回を増す毎に作品が蓄積されたり、再構築され所蔵が増えていく。3年に1度開館する美術館としての希少価値も芸術祭の盛り上がりの一翼を担う。

思えば、「祭」という日本語ならではの訳語は、人と人との関係性を結ぶ舞台装置としてこれ以上ないネーミングではないだろうか。芸術に携わる作家と島のボランティアとの交流による新しい関係性、交流により寂れる一方だった生活圏に活気がとり戻り、参加者の間に故郷的な感覚の萌芽が生まれる。一方通行の来場客にとっても離島の非日常感と意外に手軽に行ける観光地さが魅力的であり、祭りに参加する高揚感を感じることができる。

この海域一帯には古来より刻まれた正負の歴史が残っている、屋島近辺は源平合戦の檜舞台であったし、鬼ヶ島のモデルされる女木島、ハンセン病患者の強制隔離所として汚名を着せられた大島、また高度成長期には瀬戸内工業地帯の公害がもたらした負のイメージに甘んじてきた。

過疎化が進み、衰退の一方だった島々で人の交流が生まれ、活気が戻っている。これは「記憶」のデザインではないか、という考えに至った。アートの力を使って、本来持つ価値や魅力を現代に生きる人々の解釈により再定義すること。そのアイデアや人々の交流、空間の再配置を通して、良いイメージの記憶を残している。創作活動を中心にコミュニティが形成され、アート作品に溢れる頃、この芸術祭のがデザインした本質的な良さが目に見える形で現れているに違いない。

2022-11-23 制作日

ついにAPIの作品が完成。多少妥協したものの、現時点ではベストな出来だと思う。

技術面はともかく、見せ方工夫は思いのほか上手くいった。決して誤魔化しではない。見える為の技術に秀でているだけ。

2022-11-20 制作

朝早めにアトリエに到着して制作の続きに入る。100均で買い足した材料を使って最終調整するが、材料費をケチったことが裏目に出てアクリル板の長さが足りないことに気づく。コンセプトの説明に終始するよう腹を固める。評価はほぼ想定通りの結果となった。他の作品の展示の工夫や見せ方など参考になるものもあり、気づきの多い午後を過ごす。

夕方、上北沢にある旧知の知人宅を向かいゆったりとした時間を過ごす。取り巻く環境や風体はそれぞれ変化したものの、会話の端々から滲み出る言霊はほとんど変わらないものだ。ある程度の年齢になったら人はそのまま歳を重ねる。

2022-11-19 制作日

朝から吉祥寺に向かいオモチャ制作に取り掛かる。水がお題ということで「カモリウム」、鴨が水に潜った時に見える視界を再現するようなプラネタリウムを考案。

実際試作してみると、想定以上に難易度が高いことが分かる。天井にプロジェクターで水面を表現するインスタレーションなのだが、プロジェクターの画角による光の拡散具合が単焦点だと思った以上に狭い。あとポイントとして、間に挟むアクリル版のフィルターとプロジェクターレンズとの距離、透過させる素材の選び方、水による光のデフューズなど、作品成否に関わる課題が次々と発覚しパニックになる。精密な設計がないと先に進めなさそうだが、〆切までには時間も足りない。

素材選択が難しい。一般に売られている青いセロファンは意外と色が濃くて、光の拡散具合が減衰してしまう。色がなくても水の波紋や光の動きで十分水は感じられている。

色で言うと隣の方から色付きガラスをお借りして使ってみると中々調子良い光になったので合わせ技で使うことにする。鴨は紫外線を色覚できるので、僅かな色でも輝いて見えるに違いない。時々光の中に現れる暖色の光が陽の光を想起させる。プリズムも買っておけばよかったと後悔。

設置環境も課題だった。投射面に模様があったので、映像をそれに合わせる工夫も事前に知っておけばできたのかも。ただ大きく広がる面白さも捨て難いので、ここはひょっとしたらフィルターがわの表現を簡素化して水の形を整理してデザインすることで違った表現ができた部分かもしれない。

とにかく、時間いっぱい使い切って夕方にはヘトヘトになって帰途についた。

2022-11-13 メディアリサーチ

朝からメディア論のレクチャーに出席。メディアの捉え方、Knolling、アフォーダンス、発明ということについて。午後はフィールドワークで観察とコンセプトメイキング作業を行う。何も考えてなくてもジッと見続けること。ある種のセレンティビティがおこる瞬間がある。でもアイデアはいつも途切れそうなほど微細なもの。逃さない為には瞬間的に消えるので注意深く構えておく必要はある。

2022-11-8

渡邊恵太さんの「融けるデザイン」を読む。「優れたデザインとは何か?」という問いを考える場合、「デザインは誰のもの?」という疑問が湧くのは、人を軸に思考するパーソナリティを持つ故だろうか。デザインの古典的な定義に対して、情報とインテラクションを軸とした現代的な再定義を試みる興味深い一冊である。

本書はインターフェイスやインテラクションデザインといったデザインの新領域を論じる。まず、現象レイヤとして定義されている領域が個人的にはとても新鮮。UI/UXデザインが世界のインターネット化が進むにつれ、より重要になっている背景を腹落ちさせてくれる。しかも、それは単に操作性や判読性(可用性のような概念も含むと思われるが)といった割と表層的な、本質的でないとそれこそ無知の無知による誤解をしていたわけだが、それを「透明性」、「身体拡張」、そして重要ワードである「自己帰属感」の事例紹介を通じて分かりやすく解き明かしてくれる。テクノロジーと人の関係性に関心のある人な、とても魅力的な議論だと思うはずだ。

人間は動き続けている。だからそれを阻害しないデザインであることが一つの基軸になる。動くから(センサーとしての身体は)環境を感知できる。何かのデザインを考える時、例え動的なダイナミクスを持つ場合でもイメージは大体の場合、スナップショットであることが多い。

ギブソンの生態心理学から引用した肌理の議論も面白い。例えば画材の使い方やデッサンでの鉛筆の重ね塗り、コンピュータグラフィックスでもパターンを重ねることで肌理が生まれるが、そこに人はリアリティや自己帰属感を知覚することで物を認識するということなのか。

2015年と比較的新しい本なのだが、昨今のデジタル化の進展が早すぎるせいか、既に一般化した内容も見受けられる。「デザインとはインターフェイスを考えること」。インターネットの向こうにいる「人」。デザインの対象にもよるし、インターフェイスというより「The Internet」に対する人の関わり方かもしれない。情報と物質の境界線が消えたら、人とメディアの関係性もまた違和感のある境界線に思えないだろうか。

2022-09-03 手書き作業

 MAUの課題に取り組むため、家に引きこもって作業を進める。人生に焦点を当て、興味の変遷をグラフィックレコードを使って表現する課題だが、既に記憶にないことも多く、過去の情報整理に随分手間取る。人生悲喜交々、爆発しそうな大量の記憶があるけれど、整理してまとめようとすると結局は一般的なテーマに収斂していく。

 制作の過程で双六を見つけたので、ビジュアライズのフォーマットにする。そういえば、先日見た葛飾北斎の展示でも双六を見かけたことを思い出す。富嶽三十六景じゃないけれど、コレクション的な作風にあるからか、双六と北斎の作風の親和性は高い気がする。現代的なボードゲーム的な作品よりビジュアルで統一感を持たせた絵も面白いかもしれない。